僕は「同じ気持ち」という言葉を使わないように気をつけています。
そういった表現をしたい場合でも、せいぜい「似た気持ち」とか「同じような気持ち」とか、少しぼかした表現をします。
というのも、人は他人を100%理解することはできないと考えているからです。
他人を理解できないという部分だけを切り取って「理解しようとしていない」とか「人の気持ちが分からないんだろ」とか言う人もいるんですが、そうじゃないんですよ。
あくまで”100%”理解することはできないと言っているだけ。
そして、それは原理的に不可能なんです。
例えば、クオリアという概念はご存知でしょうか?
なかなか難しい概念なんですが、なんとか頑張って説明してみます。
クオリアを一言でいうと、人間がそれぞれ脳の中に作り上げる主観的なイメージのことです。
例えば赤色の何かを見た時、その人の脳裏に浮かぶ赤色が赤のクオリアです。
赤色は誰にとっても赤色だろと思うかもしれませんが、クオリアまで同じとは限りません。
Aさんが赤を見た時に浮かんでいるクオリアは、Bさんにとって青を見た時に浮かんでいるクオリアかもしれないわけです。
これをAさんの基準で考えると、Bさんは赤色が青色に見えていることになるんですが、Bさんは昔から青色のことを赤色だと思っているので日常のコミュニケーションには影響しません。
色だけでなく「楽しい」とか「苦しい」なんて気持ちについても同じことがいえます。
どんなに多くの言葉で説明しようとしても、自分が感じるクオリアは自分だけのもの。
だからこそ自分の感覚を100%人に説明することはできないし、同時に他人の感覚を100%理解することもできないんです。
他人を理解できると勘違いしていると、コミュニケーションのズレを許容することができなくなってしまいます。
悩み相談なんか分かりやすい例ではないでしょうか?
他人のことを100%理解できると思っている人は、悩んでいる人にとって非常にやっかいな存在です。
理解できると勘違いしているせいで勝手に分かった気になってくるし、ひどい場合は自分にとっての正解を押し付けたり、こちらの考え方を矯正しようとしたりしてきます。
何よりどうしようもないのが、彼らには悪気がないということ。
最終的に「なんで分かんないの?」みたいに上から目線になることもあるからタチが悪い……。
一方で、他人を100%理解できないと分かっている人ならちゃんと諦めてくれるので、無理してこちらが相手に合わせなくて済みます。
ある程度仲が良くなってくると、ついつい相手のことを理解できる気になってしまいがちです。
でも、それは理解している気になっているだけ。
本気で他人を100%理解できるなんて思っていると、どこかで価値観や考え方が合わないと思ったときに喧嘩や仲違いをしてしまいます。
最初の話に戻りますが、だからこそぼくは「同じ気持ち」という表現を極力避けています。
お互い「人が他人を100%理解できるなんてことはあり得ない」と分かった上で、それでもなんとか理解しようと努力する。
それこそが人間関係を深める上で大切なことだと思います。
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